Epistula Vol.66(2022年3月10日)

Epistula Vol.66(2022年3月10日付)掲載

 先日京都の友人に会う機会がありました。彼はバカラの輸入商としても有名ですが、戦後、京都財界がお金を出し合って、海外に流出した美術品の買戻しを彼の父に依頼した際に、父と一緒に日本の美術品の里帰りを進めてきた人物としても有名です。

 その彼が、「『青天を衝け』で渋沢栄一がパリ万博に参加するシーンがあったのだが、もう一押ししてほしかった」と悔しがっていました。それは、1867年のパリ万博で日本館がグランプリを取ったことでした。パリでの万博はその後、1878年、1889年、1900年に開催されましたが、その都度日本の美術品が高い評価を受け、ジャポニズム、アール ヌーヴォー、アール デコと欧州の美術に大きな影響を与えました。バカラもこの流れに乗って大きく成長します。

 日本館がグランプリを取ったのは福沢諭吉のおかげでした。外貨を稼がないと植民地にされてしまうと気づいた福沢諭吉は、万博の10年ほど前から刀鍛冶、鞘師、鍔師などを集めて美術品として輸出できるように仕組みこれがグランプリにつながったのです。

 明治維新後の我が国の植民地化を救ったのは絹織物ではなく、実は伝統工芸品でした。