特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)の取り組み

 文部科学省の平成16年度「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」に、本学音楽科の「多様な演奏会による地域交流教育の工夫改善」が採択されました。

「特色GP」とは

香々地町提供写真 「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」は、平成15年度より始まった文部科学省のプログラムです。大学教育の改善に資する種々の取組のうち、特色ある優れたものを選定し、選定された事例を広く社会に公表し、財政支援を行っています。これにより、教育改善の取組について、各大学や教員のインセンティブになるとともに、他大学の取組の参考になり、高等教育の活性化を促進することを目的としています。

 平成16年度は、国公私立の大学・短期大学から計534件の申請があり、58件が採択されました。本学が申請した「主として大学と地域・社会との連携の工夫改善に関するテーマ」では、113件の申請があり、そのうち12件が採択(採択率:10.6パーセント)。左記のテーマで、短大では27件の申請があり、そのうち4件が採択(採択率:14.8パーセント)と、たいへん狭き門でした。 「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」の詳細については、下記のサイトをご覧下さい。

音楽科による地域演奏会の取組

オーツカスタジオ提供写真  本学音楽科では、これまで多様な地域演奏会を企画し、各市町村と交流を深めながら教育活動に取り組んできました。
 昭和61年に始まった「地域巡回演奏会(年2~3回)」は、これまでに大分県内ののべ40市町村で実施し、小中学生にクラシック音楽の楽しさ、素晴らしさを伝えるとともに、音楽を通しての交流を進めています。また、平成14年からは大分市にて「若さあふれるコンサート(年6回)」を開催しています。さらに、平成12年からは毎年秋の地域文化祭「上野の森アートフェスティバル」において、学生がボランティアとして出前コンサートを実施しています。
 「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」の採択は、本学音楽科の長年にわたる意欲的で先進的な取組が高く評価されたものと言えます。

文部科学省「特色ある大学教育支援プログラム」採択記念 特別地域演奏会

 平成16年度「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」採択を記念して、本学では、竹田市において、特別地域演奏会を開催いたしました。
 竹田市では、芸術文化活動の推進を市政の主要な柱として「音楽のまちづくり」に取り組んでおり、新生竹田市の全中学6校の生徒656名が引率の先生とともに本演奏会を鑑賞します。また、この時期に「第59回瀧廉太郎記念音楽祭全日本高等学校声楽コンクール」(10月22・23日)、「第57回瀧廉太郎を偲ぶ音楽祭」(11月1日)など、瀧廉太郎にちなんだ音楽会が開催されることになっており、本演奏会も、地域における音楽文化活動支援の一環として開催いたしました。
 ベートーヴェンの「交響曲第九番合唱付き」は、平成13年の本学定期演奏会以来4年ぶりの演奏であり、また、瀧廉太郎の「荒城の月」は、混声合唱と管弦楽による大規模なものとなりました。

期日: 平成17年10月9日(日)午後3時開演(午後2時30分開場)

会場: 竹田市文化会館

曲目:ベートーヴェン 交響曲第九番「合唱付き」

  • ソプラノ : 大島 栄子(本学教授)
  • アルト : 橋本 エリ子(本学卒業生)
  • テノール : 行天 正恭(本学専任講師)
  • バス : 押川 浩士(本学卒業生)
  • バス : 押川 浩士(本学卒業生)

瀧廉太郎 混声合唱と管弦楽のための「荒城の月」

  • 編曲 : 河野敦朗(本学助教授)
  • 演奏等
    • 指揮 : 船橋洋介
    • 演奏 : 本学管弦楽団 70名
    • 合唱 : 本学合唱団 145名

曲目解説: ベートーヴェン 交響曲第九番「合唱付き」

音楽科助教授 小川伊作

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年、ドイツ中西部の都市ボンに生まれた。時代はかつての華やかな宮廷文化から、市民社会のそれへと移行しつつあった。啓蒙思想、アメリカ独立(1776)、産業革命(1760~1830)、カント(1724~1804)の哲学、ゲーテ(1749~1832)の文学、フランス革命(1789)、そしてナポレオン(1769~1821)の登場。旧政治体制の崩壊と、市民社会の成立と平行して、文化構造の変革期に生きたベートーヴェンは彼自身の芸術もまた、挑戦と革新に満ちたものであった。第九を通して彼が訴えた考え方、「人類はみな兄弟となる」は、なによりも啓蒙主義の基調をなす人道主義的考えであったのだ。1789年ベートーヴェンはボン大学の聴講生となるが、これも啓蒙君主を任じるボンの選挙候の政策あってのことだった。1792年ウィーンに出てから、本格的な活動を始めるが、ベートーヴェンは彼以前の音楽家のように、特定の教会、貴族、宮廷に召し抱えられることなく、自立した音楽家として一生を過ごした。しかし「気難しく人嫌い」といった今日の通説に反し、貴族などの友人知人は多かった。
 最初ベルリンでの初演を考えていたベートーヴェンに対しウィーン上演のため助力・嘆願を申し出たのは30名近くの貴族であった。1827年、56歳の生涯を閉じたベートーヴェンの葬儀には、有名無名の音楽家(シューベルトも参列していた)すべてと、なおも1万人におよぶ群衆を集め、ウイーン始まって以来の壮大なものであったという。その生涯に主要作品だけで交響曲9曲、ピアノ・ソナタ32曲、ピアノ協奏曲5曲、ヴァイオリン協奏曲1曲、弦楽四重奏曲16曲などを残したが、いずれのジャンルにおいても、常に超越的態度が感じられ、今日でも彼の音楽は、聴く人に説得力をもって語りかけてくる。とりわけ本日上演される、彼の最後の交響曲となった第九番は、彼の創作の集大成ともいうべきもの。交響曲第5番で明確に表明された「苦難を通り抜けて歓喜へ至る」という彼の人生観が、この第九番においてはより高いレベルで凝縮・結晶化されており、文字通り音楽史上の傑作と呼ぶにふさわしい作品である。

「歓喜に寄せる頌歌」との出会い

 先述のように1789年5月、19才のベートーヴェンはボン大学の聴講生となる。同年7月14日フランス革命が勃発したとき、教授シュナイダーによる革命思想についての熱のこもった講義がボン大学の学生達を感激させた。こうしてベートーヴェンは「自由・平等・博愛」というフランス革命の精神に共感を覚えていった。また1792年にはフィッシェニヒ(シラーの友人)によるシラーの講義を聴き、個人的な知遇も得ていた.フィッシェニヒがシラー夫人にあてた手紙(1793.1.26)のなかで「・・・彼はまたシラーの『歓喜』を、しかも全節を作曲しようとしています」と書き記している。ベートーヴェンが交響曲第1番を完成したのが1800年。彼はそれ以前にすでに後の第九交響曲の構想を抱いていたのだ。
 また第4楽章に現れる「歓喜の主題」の旋律は、もともとはフランスのオペレッタ(小規模な喜歌劇)などにみられたもの。ベートーヴェン自身の作品の中では、歌曲「相愛Gegenliebe」(1795)が最初の例である。つまりベートーヴェンはシラーの頌歌を知ったのと、ほぼ時を同じくして旋律にも出会っていたことになる。その後この旋律は、歌劇「フィデリオ」初稿(1804)、合唱幻想曲(1808)と受け継がれ、最後の作品へ結実していくのである。

第九の聴き所

 ところでベートーヴェンはこの作品を書くに当たって、どのような工夫を、あるいは仕掛けをしたのだろうか。全四楽章という楽章構成は、当時の標準であり、この点では交響曲第六番の方が破格といえる(全五楽章)。しかし通常は緩徐楽章が置かれる第二楽章に速いスケルツォを置いた点が目を引く。さらに第三楽章は緩徐楽章であるが変奏曲形式を導入。この楽章の天国的な美しさは、たとえようもなく、ベートーヴェンの書いた音楽中最上のものに属することは間違いない。そして何といっても独創的なのは終楽章の第四楽章だ。いきなり不協和音が強奏で鳴り響く開始部に驚かされるが、その後はしばらく、低弦の叙唱が続き、その間に第一?三楽章の主題が回帰してくる。最後に「歓喜の主題」が優勢となり、美しいオーケストラの響きが歓喜の主題を歌い上げた後、再び不協和音の強奏。バスの独唱が始まる(この曲が現れるまで交響曲に声楽が入った例はなかった)。ここでは音楽を通しての論理的な構築性が、見事な効果を上げる。前三楽章の主題旋律が第四楽章冒頭に再現され、それらを越えるものとして「歓喜の主題」が提示されるのだ。しかもこの楽章ではテンポ、拍子もめまぐるしく変わり、書法も叙唱、合唱、重唱、三重唱、四重唱、フーガと多彩である。テキストも単純に付曲されているわけではなく、自由に反復、組み替えが行われており、ベートーヴェンがどの言葉に関心を持ち、なにを訴えたかったが読みとれる。おもしろいのは、テノール独唱の部分で、楽譜に「行進曲風に」と記されている。実際に大太鼓、シンバル、トライアングルという打楽器が加わるが、これらの楽器は元来軍楽隊、それもトルコのそれに顕著な楽器であった(ベートーヴェンのみならずモーツァルトもトルコマーチを作曲しているが、これらは当時のヨーロッパにおけるトルコブームをよく表している)。つまりはベートーヴェンは自己の最高傑作の中に、異国的な行進曲を忍び込ませたことになるが、それがどれほど芸術的な高みまで昇華されているかは、一聴しただけで明らかとなる。また全楽章を通じていえることは、対位法の見事さである。耳を澄ませば、美しく細やかな配慮の行き届いた対旋律をいたるところで聴き取ることができるだろう。これはベートーヴェンが幼少時、バッハの平均律を教材に音楽を学んだことと無縁ではない。
 第九交響曲は、したがって名演と評される録音も数多い。古くはフルトヴェンクラー指揮のバイロイトの名演が忘れられない。これは第二次世界大戦終結後の、平和が取り戻された喜びが率直に演奏に表れている演奏といえる。そしてもうひとつ忘れられない第九の演奏は1989年12月25日、バーンスタインの指揮でベルリンで行われた演奏会だ。これはベルリンの壁崩壊という歴史的事件を記念して行われたもので、その様子は全世界に放映された。バーンスタインはインタビューの中で歌詞の「歓び」を「自由」に変更したことに触れ、これはベートーヴェンの本来の考えに沿うものだと述べている。「自由」を尊ぶあたり、いかにもアメリカの音楽家らしいが、それはベートーヴェンが生涯抱き続けた理想にまっすぐ続いている。日本での第九初演は大正13(1924)年11月29日。以来無数の第九の演奏会がわが国で催された。今日の第九の演奏が、「心から心へ」伝わり、この新しい世紀の「苦難を通り抜けて歓喜へ至る」ことを予示するものであることを願ってやまない。

(大分県立芸術文化短期大学創立40周年記念定期演奏会プログラムより再録)

編曲ノート: 瀧廉太郎と「荒城の月」

音楽科助教授 河野敦朗

 瀧廉太郎は明治12年(1879)東京で生まれ、小学校の時竹田に移り住み、27年東京音楽学校に入学、29年にはピアニストとして演奏会に出演、33年には「花」の入った組歌「四季」が、34年には「荒城の月」「箱根八里」の入った曲集「中学唱歌」が出版されました。34年ドイツ留学、35年には体調を崩して帰国、大分の父母のもとに戻ります。
 西洋音楽を純粋に正確に学び、日本的情感と西洋音楽との接点に成り立つ独得の音楽は、組歌「四季」で今までの日本の音楽にはない質の高さと実験性を見せますが、同時期に書かれた「荒城の月」は、もう少し日本寄りに感じられます。その事が、オリジナルの楽譜が変更されて、より日本風になり、多くの人の心に伝わって行ったと思います。彼自身の曲のイメージは少し違ったものだったと思いますが、彼自身にとって自信作であった事は間違いありませんし、100人の心に100の思いを抱かせる曲は名曲だと言えます。
 今回編曲をさせて戴きましたが、曲の発祥の地で、その地の聴衆の方々と共に曲を演奏し聴くことは、感慨深いものがあります。そこには竹田の自然や、多くの人々の心や、瀧廉太郎の思いが写し込まれます。このような貴重な場を与えて戴いた竹田の皆様に心から感謝し、共に心から味わいたいと思います。又、この曲を通じて、竹田の自然や人の心が、いつまでも広く歌い継がれる事を心から願います。