「おおいた教育の日」エッセーで情報コミュ学生が優秀賞を受賞しました!
2013.11.27
大分県教育委員会が主催する「第9回 おおいた教育の日エッセー募集」で、本学 情報コミュニケーション学科1年 工藤明日香さんの作品が優秀賞を受賞、11月1日に『エイトピアおおの』にて開催された授賞式に出席しました。
「おおいた教育の日エッセー募集」は、大分県教育委員会が“おおいた教育の日”の趣旨を広く県民に普及・啓発し、学校、家庭及び地域社会が一体となった教育の協働の取組を推進するため、教育に関するエッセーを募集したものです。
エッセーのテーマは「ふるさと」。工藤さんは、幼いころいつも遊びに行っていたおばあちゃんとの想い出を綴りました。お泊りしたり、だんご汁を一緒に作ったりと楽しい出来事から、辛かったおばあちゃんとの別れまで、まるで目に浮かんでくるかのように表現されていました。工藤さんにとっておばあちゃんとの想い出は、まさに“心のふるさと”なのでした。
賞を受けて、工藤さんは「丁寧に時間をかけて書きました。大好きなおばあちゃんへの気持ちが詰まっていたので、それが表彰されて嬉しいです」と感想を述べました。
以下は優秀賞を受賞した工藤さんの作品です。
「おばあちゃん、きたよ!」幼稚園の頃の私は、毎週土曜日になると、実家と遠くない祖母の家に泊まりに行っていた。おばあちゃん子だったため、毎週泊まりにいくことが楽しみでしょうがなく、祖母に会える前日は夜も眠れぬ程であった。
祖母の家には、ミーコという目の青くて、毛の長く真っ白でとても上品な猫がいた。当時から体が弱く喘息の発作がすぐに出る子供だったため、ミーコにあまり触るなと言われていたが、動物好きの私は誰の注意も聞かず、泊まりに行った夜は、毎回喘息に苦しんでいた。呼吸がうまくできないために、寝転がることさえもできず、眠れなかった。そんな私の背中を祖母はずっとさすってくれていた。「大丈夫、大丈夫」の声は、本当になんでも大丈夫になる気すらしていた。本当に喘息が治る気がして、涙がとまっていたのだ。祖母の愛情のパワーは本当にすごいのだ。しかし、愛情パワーもむなしく、毎週日曜日の朝には病院に行く羽目になっていた。
そんな苦しい思いをしながらも、祖母の家に行っていた理由は、祖母が好きだからだけではない。祖母はいろいろなことを教えてくれた。祖母はとにかく料理が上手で、何を食べても美味しかった。そのなかでも、格別に好きだったのが、だんご汁。だんごを一緒に伸ばすことが楽しくて仕方がなかった。最初はうまく伸ばせなかった団子を、丸めて粘土変わりに遊んでいたのだが、うまくできると、ほめられたために集中して団子を伸ばした。分厚くいびつな私のだんごと、薄くて形のきれいなおばあちゃんのだんご。どの団子をどちらが作ったかは、一目瞭然であったが、その差も小学校高学年になると、埋まっていた。今それを思い出すと、ノスタルジーになるのは、私が少し大人になったからかもしれない。
苦しい時は誰よりも先に助けてくれ、だんご汁のほかにも色んなことを教えてくれた祖母。いつまでも一緒にいてほしいと願っていたが、そんな祖母もいつかはいなくなると、悟ったのが中学一年生の時だった。祖母は「胃がん」と、医師に宣告されたらしい。親戚が話していることで知ってしまった。しかし、私が知っていることを知らない、両親と祖母は私に黙っていた。だから私も知らないふりをした。「成人式の姿を見るまでは死なれんなぁ」「ひ孫の姿見たかったわ」なんて、弱音が聞こえても「何言いよんの」と、笑いながら、祖母の言葉を聞き流すことしか私にはできなかった。それが精一杯だった。そんな言葉を聞いた夜は、祖母がいなくなることの怖さで、一人枕を濡らした。
しかし、それでもその時はやってきた。高校一年生の秋に病院に呼ばれたとき、もうこれが最後の時なのだと知らされた。笑顔で見送ろうと決心して、病室のドアをあけ、ベッドで眠る祖母の近くに行った。話しかけようと口を開けたが、言葉が見つからず、涙しか出てこなかった。病室の隅にあった丸イスに腰掛け、私は外の景色を見ながら泣いた。視界に入る祖母の姿には、耐え切れなかったからだ。しかし、それが今でも悔いなのだ。もっともっと、話したかったことはたくさんあったのに。家族や親戚。たくさんの人に悔やまれながら、祖母はその日にこの世を去った。泣いても泣いても、涙は枯れないことを知った。
ふるさとといえば、普通、両親とともに育ってきた家なのかもしれないが、私は違う。祖母と過ごしてきた時間だ。もう、祖母のいたあの時に戻ることはできないが、思い返すことならできる。天国できっと待ってくれている祖母のもとに行くのは、あと何十年後の話になるかはわからないが、成人式の振袖の姿も、私の子供の姿も全部全部、写真に収めて、祖母に見せたいと思う。しかしそれは、私が今度はおばちゃんと呼ばれ、孫にふるさとを作ってあげたあとの話だ。それまで待っていてね、おばあちゃん。
祖母の家には、ミーコという目の青くて、毛の長く真っ白でとても上品な猫がいた。当時から体が弱く喘息の発作がすぐに出る子供だったため、ミーコにあまり触るなと言われていたが、動物好きの私は誰の注意も聞かず、泊まりに行った夜は、毎回喘息に苦しんでいた。呼吸がうまくできないために、寝転がることさえもできず、眠れなかった。そんな私の背中を祖母はずっとさすってくれていた。「大丈夫、大丈夫」の声は、本当になんでも大丈夫になる気すらしていた。本当に喘息が治る気がして、涙がとまっていたのだ。祖母の愛情のパワーは本当にすごいのだ。しかし、愛情パワーもむなしく、毎週日曜日の朝には病院に行く羽目になっていた。
そんな苦しい思いをしながらも、祖母の家に行っていた理由は、祖母が好きだからだけではない。祖母はいろいろなことを教えてくれた。祖母はとにかく料理が上手で、何を食べても美味しかった。そのなかでも、格別に好きだったのが、だんご汁。だんごを一緒に伸ばすことが楽しくて仕方がなかった。最初はうまく伸ばせなかった団子を、丸めて粘土変わりに遊んでいたのだが、うまくできると、ほめられたために集中して団子を伸ばした。分厚くいびつな私のだんごと、薄くて形のきれいなおばあちゃんのだんご。どの団子をどちらが作ったかは、一目瞭然であったが、その差も小学校高学年になると、埋まっていた。今それを思い出すと、ノスタルジーになるのは、私が少し大人になったからかもしれない。
苦しい時は誰よりも先に助けてくれ、だんご汁のほかにも色んなことを教えてくれた祖母。いつまでも一緒にいてほしいと願っていたが、そんな祖母もいつかはいなくなると、悟ったのが中学一年生の時だった。祖母は「胃がん」と、医師に宣告されたらしい。親戚が話していることで知ってしまった。しかし、私が知っていることを知らない、両親と祖母は私に黙っていた。だから私も知らないふりをした。「成人式の姿を見るまでは死なれんなぁ」「ひ孫の姿見たかったわ」なんて、弱音が聞こえても「何言いよんの」と、笑いながら、祖母の言葉を聞き流すことしか私にはできなかった。それが精一杯だった。そんな言葉を聞いた夜は、祖母がいなくなることの怖さで、一人枕を濡らした。
しかし、それでもその時はやってきた。高校一年生の秋に病院に呼ばれたとき、もうこれが最後の時なのだと知らされた。笑顔で見送ろうと決心して、病室のドアをあけ、ベッドで眠る祖母の近くに行った。話しかけようと口を開けたが、言葉が見つからず、涙しか出てこなかった。病室の隅にあった丸イスに腰掛け、私は外の景色を見ながら泣いた。視界に入る祖母の姿には、耐え切れなかったからだ。しかし、それが今でも悔いなのだ。もっともっと、話したかったことはたくさんあったのに。家族や親戚。たくさんの人に悔やまれながら、祖母はその日にこの世を去った。泣いても泣いても、涙は枯れないことを知った。
ふるさとといえば、普通、両親とともに育ってきた家なのかもしれないが、私は違う。祖母と過ごしてきた時間だ。もう、祖母のいたあの時に戻ることはできないが、思い返すことならできる。天国できっと待ってくれている祖母のもとに行くのは、あと何十年後の話になるかはわからないが、成人式の振袖の姿も、私の子供の姿も全部全部、写真に収めて、祖母に見せたいと思う。しかしそれは、私が今度はおばちゃんと呼ばれ、孫にふるさとを作ってあげたあとの話だ。それまで待っていてね、おばあちゃん。